結論から書きます。歌舞伎町という街は、名前のほうが先にできました。 町名が生まれたのは1948年(昭和23年)4月1日。区画整理そのものが完了したと新宿区が記録しているのは1957年(昭和32年)7月15日です。名前だけが9年ほど先に走っていた期間があります。
そして、その名前の由来になった歌舞伎の劇場は、ついに建ちませんでした。「歌舞伎町」は、実現しなかった計画の名前がそのまま地名として残った街です。 これは俗説ではなく、新宿区が策定した公文書のなかにはっきり書かれています。
この記事は、いまの歌舞伎町の姿を紹介するものではありません。扱うのは、戦前この場所が何だったか、なぜ焼けたか、誰がどういう構想で作り直したか、そして街の形そのものがどう設計されたかです。いまの街のことは歌舞伎町はどんな街かの記事にまとめてあります。ここでは、自分で開いて確認できた新宿区・東京都・学校・企業の公表資料だけを材料にして、時系列で追っていきます。
この記事で分かること
- 戦前のこの場所の住所は「角筈(つのはず)」で、東京府豊多摩郡淀橋町の一部だったこと
- 明治から大正にかけて、ここが「大村の森」と呼ばれる池と湿地と森の一帯だったこと
- 大正9年にこの土地へ東京府立第五高等女学校が移ってきて、女学校の街になっていたこと
- その校舎が1945年(昭和20年)4月14日に戦災で全焼したこと
- 焼け跡の町会長・鈴木喜兵衛が、東京都の都市計画課長だった石川栄耀(ひであき)を訪ねたところから街の設計が始まったこと
- 「歌舞伎町」という名前に込められたコンセプトの一文が、いまも新宿区の公文書に残っていること
- 街のなかにT字路が多いのは偶然ではなく、「景観の封鎖」という設計思想の結果であること
- シネシティ広場が、かつて「レインボーガーデン」「ヤングスポット」と呼ばれていたこと
- 1950年(昭和25年)の東京産業文化博覧会と、そのパビリオンが映画館に転用されたこと
- 新宿コマ劇場が1956年12月28日に開場し、52年で幕を下ろしたこと
- 実現しなかった「演舞場」の構想が、2023年の劇場の名前にどう残っているか
歴史の記述は、公表資料に書かれている範囲をそのまま整理したものです。古い時代の出来事は資料によって年月日や表記が食い違うことがあります。 ここでは出典を明記し、確認できなかったことは書きません。特定の店や地区を評価する意図はなく、店名も挙げません。
戦前、ここは「歌舞伎町」ではなかった
住所は「角筈」だった
いまの歌舞伎町一丁目・二丁目にあたる場所は、戦前「角筈(つのはず)」という地名でした。東京府豊多摩郡淀橋町の字(あざ)です。
行政の枠組みも今とは違います。新宿区の公式サイトによれば、淀橋区が成立したのは昭和7年10月で、淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町の4町が併合してできた区でした。四谷区と牛込区は明治11年からある古い区ですが、淀橋区は昭和になってからの区です。そしてこの3区が統合されて新宿区が発足するのは、戦後の昭和22年3月15日のことです。
つまり、戦前のこの場所は「新宿区歌舞伎町」ではなく、「東京府淀橋区角筈」でした。地名も、区も、いまと違います。
「大村の森」と鴨場
もう少し前にさかのぼります。一般社団法人新宿観光振興協会が歌舞伎町弁財天の紹介文で説明しているところによれば、この一帯は明治から大正にかけて、肥前国(長崎県)大村藩主だった大村家の土地で、「大村の森」と呼ばれていました。 池と湿地と森に囲まれた、鴨場として好適な場所だったと書かれています。
同じ紹介文には、大正2年に上野寛永寺の不忍弁天の分祀として本尊が勧請されたことも記されています。いまも歌舞伎町のなかに弁財天が残っているのは、この時代の名残です。
繁華街の地面の下に、池と湿地があった。これは歌舞伎町という場所を考えるときに、意外と効いてくる事実です。
水と学校の街になっていく
明治後期、新宿の西側で大きな工事が進みます。東京都水道局の資料によると、1898年(明治31年)12月1日、淀橋浄水場から神田・日本橋方面への給水が始まりました。 東京で初めて、ろ過した水を鉄管を通して送る方式で、これが東京における近代水道の幕開けだと水道局は説明しています。東京都はこの日にちなんで12月1日を「東京水道の日」としています。
そして大正期、この土地に学校が来ます。東京都立富士高等学校が公表している沿革には、次の年月日が並んでいます。
- 大正8年12月27日 東京府立第五高等女学校設立認可
- 大正9年4月18日 開校、各学年100名入学
- 大正9年5月10日 東京府豊多摩郡淀橋町字角筈879番地に新校舎一部落成、移転
- 大正9年11月5日 開校記念式典挙行
- 大正12年5月23日 新校舎落成
歌舞伎町の前身は、女学校のある街でした。 繁華街のイメージからは遠いですが、住所として「淀橋町字角筈879番地」が学校の公式沿革に残っています。
1945年、全部焼けた
4月14日、校舎が全焼した
同じ都立富士高校の沿革に、次の一行があります。
- 昭和20年4月14日 戦災により校舎全焼
学校自身が公表している記録なので、この日付は確かです。戦後、学校は角筈には戻りませんでした。沿革によれば昭和23年4月1日に東京都立第五女子新制高等学校と改称し、昭和23年5月20日に中野区富士見町9へ新校舎が落成・移転しています。昭和25年1月28日に東京都立富士高等学校へ改称し、同年4月8日から男女共学が始まりました。
つまり、いまの歌舞伎町に女学校が戻ってくる未来もあり得たわけですが、実際には学校は中野へ行き、土地は別の使われ方をすることになります。
区全体で何が起きていたか
新宿区の公式サイトは、区の歴史をこう書いています。戦前は約40万人の人口があったが、東京大空襲により大部分が焼失し、終戦時には約7万8000人に減少した。 5分の1以下です。
新宿区が2013年(平成25年)4月に策定した「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」の冒頭でも、歌舞伎町は「戦後、焼け野原となったまち」だと書かれています。ここから先の話は、その焼け野原の上で始まります。
名前が先にできた街
町会長が、都市計画課長を訪ねた
歌舞伎町の成り立ちについて、いちばん確かな記述は新宿区の公文書のなかにあります。先の「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」に、策定委員会の委員長(当時の早稲田大学創造理工学部長・後藤春彦氏)による文章が載っていて、そこに経緯がまとめられています。
要旨はこうです。大空襲で焼け野原となった新宿角筈の町会長・鈴木喜兵衛が、当時、東京都の都市計画課長であった石川栄耀(ひであき)のもとへ戦災復興の相談に出向いた。 同ガイドラインはこれを「世界的な歓楽街建設のはじまり」と表現しています。
石川栄耀という人物については、同じ文章のなかに位置づけが書かれています。日本都市計画学会の最高の賞は「石川賞」と呼ばれ、石川栄耀の名前を冠したものであり、彼は戦前戦後を通じてわが国の都市計画を牽引した先達である、と。石川賞は現在も公益社団法人日本都市計画学会の表彰制度として続いています。石川はのちに早稲田大学で教鞭をとりました。
行政の側の専門家と、地元の町会長。この二人が組んだところから街の設計が始まったというのが、歌舞伎町の出発点です。
命名のコンセプトは一文で残っている
同ガイドラインには、命名のときのコンセプトがそのまま引用されています。
歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する
このコンセプトのもとに『歌舞伎町』と命名された、と書かれています。そして続けて、「不幸にも歌舞伎劇場の誘致は実現しなかった」とも明記されています。
ここで注意しておきたいのは言葉です。目指されていたのは「歓楽街」ではなく「家庭センター」でした。 銀座や浅草のような娯楽の場を、家族が来られる形で新宿につくる。歌舞伎の演舞場はその中核として想定されていた施設です。いまの街の姿と構想の言葉を並べると距離を感じますが、少なくとも命名の時点でどういう言葉が使われていたかは、区の公文書で確認できます。
1948年4月1日、町名が生まれる
新宿区が公開している「新宿区史年表」の昭和23年の項に、次の一行があります。
- 4月1日 区画整理により東大久保三丁目、角筈一丁目の各一部が歌舞伎町となる
これが町名としての歌舞伎町の誕生日です。一つの町から切り出されたのではなく、東大久保三丁目と角筈一丁目という二つの町の一部を合わせてできたという点が、この一行から読み取れます。
新宿観光振興協会の紹介文も「歌舞伎町が誕生したのは昭和23年」とし、戦災復興事業として歌舞伎座の誘致をめざしていたころから名付けられた、と説明しています。
街ができたのは、その9年後
ところが、区画整理そのものはこの時点では終わっていません。同じ新宿区史年表の昭和32年の項に、こうあります。
- 7月15日 歌舞伎町一帯の区画整理完了(組合施行)、区役所も歌舞伎町4番地に地番変更
1948年に名前がつき、1957年に街の骨格が完成した。 その間に9年あります。名前が先で、街が後。この順番が、歌舞伎町という地名の性格をよく表しています。
途中の年にも記録が残っています。昭和24年4月1日には「都電、都市計画により角筈(歌舞伎町)迂回」とあり、都電の線路が新しい街区の計画に合わせて動かされたことが分かります。昭和25年1月1日には「区役所を歌舞伎町に置き、支所を廃して特別出張所制を敷く」。新宿区役所が歌舞伎町に移ってきたのは1950年です。 いま区役所が歌舞伎町にあるのは、この時期に決まったことです。
街の形そのものが、設計されている
T字路と「景観の封鎖」
歌舞伎町を歩くと、道が突き当たってT字にぶつかる場所が多いと感じます。これは偶然ではありません。
新宿区のガイドラインは、その理由をはっきり書いています。石川栄耀は、英国で田園都市の実践を手がけたレイモンド・アンウィンの影響を受けて、「ターミナル・ビスタ」という考えを区画整理に導入した。具体的にはT字路を多用し「景観の封鎖」ということをこころみた。これによって、視線を町の外へ逃がすことなく、迷宮状の都市空間が形成されている。
視線が抜けないように道を組む。抜けないから、歩いている人は次の角まで行きたくなる。街の「迷宮的」な感じは、設計者が意図してつくったものだった、ということになります。
このT字路は、いまも街づくりの前提として扱われています。同ガイドラインの全体方針には「T字路などの特徴的な都市構造をいかした迷宮的楽しさを演出します」という項目があり、T字路の分布図まで載っています。戦後の区画整理でできた形を、70年後の景観計画がそのまま資産として引き継いでいるわけです。
広場の名前は、時代とともに変わった
もうひとつ、同ガイドラインが記録している事実があります。この町に設えられた広場は、「レインボーガーデン」「ヤングスポット」など時代を経て名称が変わり、現在は「シネシティ広場」と呼ばれている。 そしてこの広場は、わが国の近代都市計画によって誕生した初期の広場のひとつだ、と書かれています。
繁華街の真ん中に広場がある街は、日本ではあまり多くありません。それが最初から都市計画の一部として置かれたものだった、という位置づけです。ガイドラインには、この広場が公法上は道路であることも書かれており、次の整備以降は広場から車を排除することを目指す、という方針が示されています。
「組合施行」という言葉が意味すること
年表の「区画整理完了(組合施行)」という括弧書きは、地味ですが重要です。組合施行とは、行政ではなく土地の権利者たちが組合をつくって施行する形式を指します。
新宿区のガイドラインも、この経緯を「今日で言うところの民間主導のまちづくりである」と評価し、「わが国の近代都市計画を語る上で欠くことのできないプロジェクト」だとしています。地権者と町会が主体になって、専門家の設計を受けながら焼け跡を再編した。歌舞伎町の街づくりが、いまも民間の組合や協議会を軸に動いているのは、この出発点と地続きです。
1950年、博覧会という一手
区画整理は進んでいましたが、街に人を呼び込むきっかけが要りました。そこで打たれたのが博覧会です。
新宿区史年表の昭和25年の項に、こうあります。
- 4月 東京産業文化博覧会、歌舞伎町で開催、会期後、会場となった建物が「東京スケートリンク」(後のミラノ座)、「新宿オデヲン座」等になる
この一行には、二つのことが書かれています。ひとつは、1950年(昭和25年)4月に歌舞伎町を会場として博覧会が開かれたこと。もうひとつは、その会場の建物が、会期後にスケートリンクや映画館へ転用されたことです。
つまり、歌舞伎町の映画館街は、博覧会のパビリオンの再利用から始まっているということになります。まっさらな土地に映画館を建てたのではなく、博覧会のために建てた建物が次の用途を得た。復興期らしいやり方です。
そして「東京スケートリンク」が「後のミラノ座」だったという記述は、後の話につながります。新宿ミラノ座という映画館の場所は、博覧会の会場だった場所だ、ということです。
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映画館と劇場の街だった時代
新宿コマ劇場、1956年12月28日開場
新宿区史年表の昭和31年の項は、一行だけです。
- 12月28日 歌舞伎町に「新宿コマ劇場」開場
新宿区が「地域のお宝発掘」事業で公開している紹介によれば、コマ劇場は昭和31年(1956)の開館以来、歌謡ショーやミュージカルの上演で新宿文化の一翼を担ってきた施設で、「演歌の殿堂」と呼ばれていました。
舞台の構造についても説明があります。半円形の舞台に、同心円状の6つのセリを持つ回り舞台があり、セリの回転と上下運動によって多様な舞台効果を生み出した、と。劇場名の「コマ」は、この回り舞台に由来する名前です。
歌舞伎の演舞場は建たなかったけれど、大きな回り舞台を持つ劇場は建った。 構想と現実のあいだにあった距離を、この設備の説明はよく表しています。
52年で幕が下りた
同じ新宿区の紹介文に、終わりの日付も書かれています。平成20年(2008年)12月31日をもって、52年間の歴史に幕を下ろしました。 株式会社コマ・スタジアムからは、コマ劇場、シアターアプル、コマ東宝などの資料が「地域のお宝」として新宿区に紹介されており、装飾看板、楽屋鏡台、舞台裏の時計、台本や座席表といった品々の写真が区のサイトで公開されています。
新宿区のデザインガイドラインは、この閉館を街の転機として位置づけています。「歌舞伎町の象徴ともいうべき新宿コマ劇場が52年の幕を閉じ、シネコンとホテルという新しい顔となることを契機として」ガイドラインを策定した、と冒頭に書かれています。
跡地では東宝が動きます。東宝株式会社の沿革によれば、2008年9月に(株)コマ・スタジアムを連結子会社化、2014年3月に吸収合併、2015年3月に新宿東宝ビルが竣工しています。同じ沿革には1969年10月「新宿東宝会館竣工」の行もあり、東宝がこの街に長く関わってきたことが分かります。
ミラノ座のほうは、どうなったか
博覧会の建物から始まったミラノ座の系譜も、いったん終わります。東急株式会社が公開している「東急100年史」によれば、新宿TOKYU MILANOは2014年(平成26年)12月に閉館しました。
その跡地の計画が、東急の「歌舞伎町一丁目地区開発計画(新宿TOKYU MILANO再開発計画)」です。東急のニュースリリースによれば、施設名称は「東急歌舞伎町タワー」に決まり、竣工は2023年1月11日でした。同社の発表によると開業は2023年4月14日で、地上48階・地下5階・塔屋1階、高さ約225mの超高層複合施設です。
歌舞伎の劇場は、結局どうなったか
ここで最初の話に戻ります。1948年の命名のコンセプトにあった「歌舞伎の演舞場」は、建ちませんでした。新宿区の公文書も「不幸にも歌舞伎劇場の誘致は実現しなかった」と書いています。
ただし、名前だけは残りました。 東急歌舞伎町タワーに入る劇場の名称は「THEATER MILANO-Za」です。ミラノ座という映画館の名前が、劇場の名前として引き継がれました。博覧会のパビリオンがスケートリンクになり、映画館になり、閉館して、超高層ビルの中の劇場に名前だけが残った。この街の施設は、建物が変わっても名前を引き継ぐことが多いという性質があります。
「歌舞伎町」という地名そのものが、まさにその最初の例です。建たなかった劇場の名前が、街の名前として75年以上使われ続けている。 歌舞伎町の歴史を一行で言うなら、これに尽きます。
街の運営が変わった転換点
2001年9月1日の火災と、その後の制度
歴史を語るうえで避けて通れない出来事があります。内閣府の防災情報のページに残る記録によれば、平成13年(2001年)9月1日午前1時1分に消防が覚知した火災が、新宿区歌舞伎町一丁目18-4の4階建て雑居ビルの3階部分で発生し、死亡44人、けが3人という被害になりました。
東京消防庁の新宿消防署が公開している資料には、階段に置かれた物品が延焼拡大につながったとされること、そして再発防止のために取られた措置が時系列で並んでいます。
- 平成13年9月3日〜10月31日 緊急特別査察を実施(4169棟)
- 平成14年 消防法改正(消防機関の立入検査権限の強化=時間制限撤廃・事前通告廃止、措置命令範囲の拡大、違反公示の義務付け、罰則強化)
- 平成18年6月 新宿歌舞伎町防火安全対策本部設置
- 平成23年4月 違反対象物公表制度の運用開始
- 平成31年4月 新宿消防署機動査察隊創設
いま全国の雑居ビルにかかっている消防の制度の一部は、この火災を受けて作られたものです。 消防法や関係する制度の内容は改正されることがあり、建物ごとに適用される規定も異なります。ここに書いたのは公表資料に基づく一般的な情報で、実際の判断は最新の条文と所轄消防署の指導によります。
2005年から始まった「歌舞伎町ルネッサンス」
もうひとつの転換点は、街の運営の枠組みです。新宿区の公式ページによれば、平成17年(2005年)1月に「歌舞伎町ルネッサンス推進協議会」が設立されました。
区の説明では、この協議会には新宿区、地元商店街振興組合、町会、民間企業、警察、消防、国、東京都、NPO、ボランティア、有識者が参加しています。目的は「歌舞伎町を誰もが安心して楽しめるまちに再生する」ことで、「エンターテイメントシティ歌舞伎町」の実現を掲げています。取り組みは三つのプロジェクト(クリーン作戦、地域活性化、まちづくり)に整理されています。
そのあとの計画づくりも、区のページに年月で残っています。
- 平成19年3月 「歌舞伎町まちづくり誘導方針」策定
- 平成21年4月 「新宿区景観まちづくり計画」策定
- 平成25年4月 「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」策定
焼け跡の町会長と都市計画課長という二人組から始まったまちづくりが、区・地元・警察・消防を含む協議会という形に組み替えられた。 これが2000年代の変化です。
年表でたどる歌舞伎町
| 年 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1898年(明治31)12月1日 | 淀橋浄水場から神田・日本橋方面へ給水開始 | 東京都水道局 |
| 大正2年 | 上野寛永寺の不忍弁天の分祀として本尊を勧請(歌舞伎町弁財天) | 新宿観光振興協会 |
| 1920年(大正9)5月10日 | 東京府立第五高等女学校が淀橋町字角筈879番地へ移転 | 都立富士高等学校 沿革 |
| 昭和7年10月 | 淀橋町など4町が併合して淀橋区成立 | 新宿区 |
| 1945年(昭和20)4月14日 | 第五高等女学校の校舎が戦災で全焼 | 都立富士高等学校 沿革 |
| 1947年(昭和22)3月15日 | 四谷・牛込・淀橋の3区が統合し新宿区誕生 | 新宿区史年表 |
| 1948年(昭和23)4月1日 | 東大久保三丁目・角筈一丁目の各一部が「歌舞伎町」となる | 新宿区史年表 |
| 1949年(昭和24)4月1日 | 都電が都市計画により角筈(歌舞伎町)を迂回 | 新宿区史年表 |
| 1950年(昭和25)1月1日 | 区役所を歌舞伎町に置く | 新宿区史年表 |
| 1950年(昭和25)4月 | 東京産業文化博覧会を歌舞伎町で開催 | 新宿区史年表 |
| 1956年(昭和31)12月28日 | 新宿コマ劇場開場 | 新宿区史年表 |
| 1957年(昭和32)7月15日 | 歌舞伎町一帯の区画整理完了(組合施行) | 新宿区史年表 |
| 1969年(昭和44)10月 | 新宿東宝会館竣工 | 東宝 沿革 |
| 2001年(平成13)9月1日 | 歌舞伎町一丁目の雑居ビルで火災(死亡44人・けが3人) | 内閣府/東京消防庁 |
| 2005年(平成17)1月 | 歌舞伎町ルネッサンス推進協議会 設立 | 新宿区 |
| 2008年(平成20)12月31日 | 新宿コマ劇場が52年の歴史に幕 | 新宿区 |
| 2014年(平成26)12月 | 新宿TOKYU MILANO 閉館 | 東急100年史 |
| 2015年(平成27)3月 | 新宿東宝ビル竣工 | 東宝 沿革 |
| 2023年(令和5)4月14日 | 東急歌舞伎町タワー開業 | 東急 |
昔の歌舞伎町を自分で調べるには
この記事で使った材料は、どれも誰でも開けるものです。もっと深く調べたい人向けに、入口を挙げておきます。
新宿区史年表。 新宿区が公式サイトで公開している年表で、戦後は年ごとにページが分かれています。歌舞伎町に関する記述は昭和23年・24年・25年・31年・32年あたりに集中しています。日付つきで一行ずつ書かれているので、他の資料の年号を検算するのに使えます。
新宿区の計画書やガイドライン。 「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」(平成25年4月)は、街の設計思想が説明されている数少ない公文書です。T字路や広場の話は、ここ以外ではなかなか出典が取れません。
レファレンス協同データベース。 国立国会図書館が運営している、図書館のレファレンス事例のデータベースです。「歌舞伎町の名前の由来」については東京都江戸東京博物館 図書室の回答事例が公開されていて、『新宿区町名誌 地名の由来と変遷』(東京都新宿区教育委員会、1976年)や『角川日本地名大辞典』13巻など、根拠にできる本の名前がそのまま並んでいます。 図書館で当たるときの目録として便利です。
当事者の組織が出している沿革。 学校、企業、業界団体は、自分の歴史を公式サイトに載せていることが多く、日付の精度が高いです。この記事でも、女学校の焼失日は都立富士高等学校の沿革、ミラノ座の閉館は東急、コマ劇場まわりは東宝と新宿区、というふうに当事者の記録を優先しました。
新宿歴史博物館。 新宿区の歴史資料を収集・展示している区立の博物館です。古代から近現代までの新宿の移り変わりを常設展示で扱っています。
よくある質問
なぜ歌舞伎町という名前なのに歌舞伎の劇場がないのですか
建てる計画があったけれど実現しなかったからです。 新宿区の「歌舞伎町街並みデザインガイドライン」には、「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」というコンセプトのもとに『歌舞伎町』と命名されたこと、そして「不幸にも歌舞伎劇場の誘致は実現しなかった」ことが書かれています。名前だけが残りました。
歌舞伎町という町名はいつできましたか
1948年(昭和23年)4月1日です。 新宿区史年表に「区画整理により東大久保三丁目、角筈一丁目の各一部が歌舞伎町となる」と記載されています。一方、区画整理そのものの完了は1957年(昭和32年)7月15日と記録されており、名前のほうが9年ほど先にできています。
戦前の歌舞伎町の住所は何でしたか
「角筈(つのはず)」です。 東京府豊多摩郡淀橋町の字で、昭和7年以降は淀橋区に属していました。東京府立第五高等女学校の沿革には「東京府豊多摩郡淀橋町字角筈879番地」という住所が残っています。新宿区が発足するのは戦後の昭和22年3月15日です。
歌舞伎町に映画館が多かったのはなぜですか
始まりは1950年の博覧会の建物の転用です。 新宿区史年表の昭和25年の項に、東京産業文化博覧会が歌舞伎町で開催され、「会期後、会場となった建物が『東京スケートリンク』(後のミラノ座)、『新宿オデヲン座』等になる」と記されています。もともと芸能施設を集める構想の街だったことに加え、博覧会の施設が受け皿になりました。
街のなかにT字路が多いのは偶然ですか
設計です。 新宿区のガイドラインによれば、石川栄耀は英国のレイモンド・アンウィンの影響を受けて「ターミナル・ビスタ」の考えを区画整理に導入し、T字路を多用して「景観の封鎖」をこころみました。視線を町の外へ逃がさないことで、迷宮状の都市空間が形成されている、と説明されています。
シネシティ広場は昔から広場だったのですか
はい。名前は変わってきました。 同じガイドラインに、この広場は「レインボーガーデン」「ヤングスポット」など時代を経て名称が変わり、現在「シネシティ広場」と呼ばれている、と書かれています。わが国の近代都市計画によって誕生した初期の広場のひとつだ、という位置づけです。
新宿区役所が歌舞伎町にあるのはなぜですか
1950年(昭和25年)1月1日に移ってきたためです。 新宿区史年表に「区役所を歌舞伎町に置き、支所を廃して特別出張所制を敷く」とあります。1957年の区画整理完了時には「区役所も歌舞伎町4番地に地番変更」と記録されており、区画整理の進行に合わせて地番も変わっています。
新宿コマ劇場はいつからいつまでありましたか
1956年(昭和31年)12月28日の開場から、2008年(平成20年)12月31日まで、52年間です。 新宿区の紹介によれば「演歌の殿堂」と呼ばれ、半円形の舞台に同心円状の6つのセリを持つ回り舞台を備えていました。跡地には新宿東宝ビルが2015年3月に竣工しています。
まとめ
- 戦前のこの場所の住所は「角筈」。東京府豊多摩郡淀橋町の字で、昭和7年10月に成立した淀橋区に属していた。新宿区の発足は戦後の昭和22年3月15日
- 明治から大正にかけて、一帯は大村家の土地で「大村の森」と呼ばれ、池と湿地と森に囲まれた鴨場だった。大正2年に上野寛永寺の不忍弁天の分祀として本尊が勧請された(新宿観光振興協会)
- 1898年(明治31年)12月1日、淀橋浄水場から神田・日本橋方面への給水が始まり、東京の近代水道が幕を開けた(東京都水道局)
- 大正9年5月10日、東京府立第五高等女学校が「淀橋町字角筈879番地」へ移転。昭和20年4月14日に校舎は戦災で全焼し、学校は昭和23年5月20日に中野区へ移った(都立富士高等学校 沿革)
- 新宿区は戦前約40万人の人口が、東京大空襲により終戦時には約7万8000人まで減ったと記録している
- 焼け跡の角筈の町会長・鈴木喜兵衛が、当時の東京都都市計画課長・石川栄耀を訪ねたところから街の設計が始まった(新宿区)
- 命名のコンセプトは「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」。歌舞伎劇場の誘致は実現しなかった(新宿区)
- 町名の誕生は1948年4月1日、区画整理の完了は1957年7月15日(組合施行)。名前が9年先にできた(新宿区史年表)
- T字路が多いのは、石川栄耀がレイモンド・アンウィンの影響を受けて導入した「ターミナル・ビスタ」と「景観の封鎖」の結果。シネシティ広場は「レインボーガーデン」「ヤングスポット」と名を変えてきた、近代都市計画による初期の広場のひとつ(新宿区)
- 1950年4月の東京産業文化博覧会の建物が、会期後に「東京スケートリンク」(後のミラノ座)や「新宿オデヲン座」に転用された(新宿区史年表)
- 新宿コマ劇場は1956年12月28日開場、2008年12月31日に52年の歴史に幕。跡地に新宿東宝ビルが2015年3月竣工(新宿区/東宝)
- 新宿TOKYU MILANOは2014年12月閉館。跡地の東急歌舞伎町タワーは2023年4月14日開業、地上48階・地下5階・塔屋1階、高さ約225m(東急)
- 2001年9月1日の火災(死亡44人・けが3人)を受け、平成14年に消防法が改正され、立入検査権限の強化や罰則強化などが行われた(内閣府/東京消防庁)
- 2005年1月に「歌舞伎町ルネッサンス推進協議会」が設立され、区・地元・警察・消防・国・都などが参加する枠組みでまちづくりが進んでいる(新宿区)
歴史・制度に関する記述は公表資料に基づく一般的な情報であり、個別の事情によって当てはまり方は変わります。古い出来事は資料によって年月日の表記が異なることがあるため、確認が必要なときは各機関の一次資料に当たってください。
街の名前が「実現しなかった計画」に由来しているというのは、考えてみると面白い話です。こういう話は、詳しい人に聞くと一気に世界が広がります。LOVETOK NOWは「今、話せます」と待機している人だけが一覧に並び、マッチングを待たずにその場でチャットを始められるサービスです(20歳以上・年齢確認あり)。地域ごとの話は出会いガイドにまとめています。
参考情報
- 歌舞伎町街並みデザインガイドライン(平成25年4月)(PDF)|新宿区
- 歌舞伎町地区のまちづくり|新宿区
- 歌舞伎町ルネッサンスとは|新宿区
- 新宿区について(名前の由来・歴史・地勢)|新宿区
- 新宿区史年表|新宿区
- 新宿区史年表 昭和22(1947)年|新宿区
- 新宿区史年表 昭和23(1948)年|新宿区
- 新宿区史年表 昭和24(1949)年|新宿区
- 新宿区史年表 昭和25(1950)年|新宿区
- 新宿区史年表 昭和31(1956)年|新宿区
- 新宿区史年表 昭和32(1957)年|新宿区
- 地域のお宝発掘(新宿コマ劇場)|新宿区
- その他の写真「新宿コマ劇場資料」|新宿区
- 沿革|東京都立富士高等学校・附属中学校
- 東京水道の日|東京都水道局
- 歌舞伎町ビル火災25年|東京消防庁 新宿消防署
- 東京都新宿区歌舞伎町における爆発火災について|内閣府 防災情報のページ
- 東京都新宿区にある歌舞伎町は歌舞伎座があるわけでもないのに、なぜ歌舞伎町というのか。|レファレンス協同データベース(国立国会図書館)
- 歌舞伎町弁財天|一般社団法人 新宿観光振興協会
- 歌舞伎町|一般社団法人 新宿観光振興協会
- 東急100年史 9章 2015-2022|東急株式会社
- 「歌舞伎町一丁目地区開発計画(新宿TOKYU MILANO再開発計画)」施設名称を「東急歌舞伎町タワー」に決定|東急株式会社 ニュースリリース
- 「東急歌舞伎町タワー」2023年4月14日の開業以降約1ヶ月で来館者数100万人を突破|東急株式会社 お知らせ
- 沿革|東宝株式会社

